ブラジルの若き天才ベーシストPipoquinha

そして、日本の凡人のBami

 

昨日から風邪気味だったから早めに床についたものの、微睡みもしなかったので、諦めて烏龍茶を飲みながら色々と考え事をしている内に、完全に放置していたこのブログのことを思い出した。継続するつもりだったが、二、三回書いて辞めていた。これには事情があるのだけど、恥ずかしいので語らないことにする。

 

最近、ユーチューブでブラジル人のピポキーニャというベース弾きを見つけた。

この動画だとジェイコブ・コリアーと共演している。年齢は僕より一つ下なのだけれど、曲もプレイも既に完成形。全く知らなかったのだが、13歳くらいの時からブラジル国内では天才少年として有名で、最近だと、かのペドロ・マルチンスとのデュオでショーロ・ジャズ的なこともやっている模様。

 

ここから個人的な話になるのだけど、こういった天才肌ミュージシャンを見る度に自分にはやはり音楽は向いてないのかなと最近よく思う。彼らに比べて下手だから自分が嫌になるというわけではなく、純粋に表現として音楽が自分に合っているのかどうかという点で悩む。

時間の芸術と言われる音楽だけれど、20世紀以降(パーカー以降と言ってもいい)ポピュラーミュージックの歴史の中で楽器奏者の追求してきたものは、連続する時の中での個の自由と言える。そして、ピポキーニャ君然り、彼ら天才プレイヤーというのは大体そのところに矛盾を抱えていないような気がする。彼らは常に自身の感覚に従って、より美しいもの、より心地よいものへと、その探求の過程で挫折や迷いはあったとしても、表現の地平を切り開こうとする。ここら辺が、統一よりは矛盾、感覚より観念、自由より不条理を信奉するザ・ポストモダン野郎な自分としては大きなギャップを感じる。

音楽は好きだし、演奏するのも楽しいんだけれども、自分の中に大きく占める価値観は即興芸術としての音楽で表現できるものとは、もしかしたら重ならないのかもしれない。別にそれで飯を食う云々の話ではないけれど、何だかそろそろ真面目に世に自己表現をしていかなきゃ危うい気もしているから、身の振り方を考えねばなあと思っている今日この頃。

 

 

 

まぁ偉そうなこと言えるほど、大して音楽に精通しているわけでもないので、ひとまずもっと頑張ろーっと。

かぐや姫の物語とかいうスーパー日本昔ばなし

高畑勲が亡くなったので、遺作のかぐや姫の物語が5月18日に地上波ノーカット放送するらしいけど、僕的にはこれジブリ映画で数少ない寝ちゃった映画っす。

あの映画はアニメーター目線に立つとめちゃくちゃ凄いらしいんだけど、普通に見てると凄い日本昔ばなしなので、まぁ良いけど、日本昔ばなしじゃん!ってなるんだよな。

 

実は、かぐや姫はもうジブリ内スタッフ全員がコケると解っていてたらしい。高畑勲は完璧主義者なので、2年で完成するはずだったものが、8年かかり、竹取物語が原作だからストーリーで人を集められない(というか、高畑勲ジブリの監督作で一回も黒字を出したことがない)。なので、苦肉の策で、かぐや姫がくるくると桜吹雪の中を回る一番見所のシーンをCMで出したりしてたのだろうと思う。で、高畑勲の映画は毎回テーマがクソ解りづらいというか、解ってもらおうともしてない感じだから、「えーい、しょうがない、キャッチコピーに載せちゃおうぜ!はい、姫が犯した罪と罰」ってことで、高畑アニメにおけるテーマ考察では、一番考えやすいんじゃないだろうか。というか、そもそも下界に興味持ったのが罪で、降ろされたのが罰ってかぐや姫本人が劇中で言っているし。

良く言われるのは月は共産主義の世界(高畑勲は実はガチ左翼)で、地上は資本主義の世界と言う解釈。貧富の差があり、盗みをせざるを得ないような人がいっぱいいる一方で貴族達は優雅に都文化を楽しんでたりする残酷で美しいこの世界(資本主義)に、欲も汚れも格差もない天上(共産主義)の人間が興味を持つって言うのが罪で、その下界の汚さや苦しみを知るのが罰という。旧約聖書みたいな話なんだね。

こっからは鶴喰論なのですが、この世の美しいものっていうのは、須らく残酷さや搾取の上に成り立っている。あらゆる文化というのは貧困層からの搾取無しでは成立してない。古代ギリシャの哲学もピラミッドも奴隷無くして存在したか?モーツァルトハイドンの名曲は農奴たちに対する搾取無しに完成したか?これが、バリバリ左翼の高畑勲の世界観であり、宮崎駿と共有していて、風立ちぬでも描かれたものな訳です。ただ、宮崎駿というのは残酷な世界で美しさを求める罪っていうのを、非常に動的なものとして捉えていて、世界を戦争の泥沼に引きずり込み、愛する女を見捨てても、美しい飛行機を追いかける青年を描いた。原作ナウシカが言う「私たちは血を吐きつつ、繰り返しその朝を超えて飛ぶ鳥だ」って言うのと同じなわけです。

一方、かぐや姫という話では、色のない月世界から来た女が、穢れのある下界の色鮮やかな世界に感動するんだけど、実はあの物語上の地上で最も美しいものは、自然でも音楽でも零戦でもなく、かぐや姫本人なんだ。それも声を聞いただけで結婚したいと思うような尋常じゃない美の顕現として、ある種の異能といっても良い力を備えている。劇中では、貴族の男たちが、異世界からやってきたこの究極の美に心を奪われ、求婚した結果、命を落としたり、全財産を失ったり、破滅する。しかも、かぐや姫の幼馴染の捨て丸は妻子がいるのにも関わらず、かぐや姫と再開した瞬間、妻子なんていなかったみたいに一緒に月の迎えから逃げようと提案する。つまり、かぐや姫は残酷で美しい世界に翻弄される一方、多くの人間を悲劇に導く悪女(文学用語でいうファムファタール)として、地上にいる。有名な顎長い帝も、結末は描かれていないもの、もし、かぐや姫が地上に残ったら、破滅していたと思う(原作ではそのようになっていた気がする)。つまり、個人どころか、一国を揺るがしかねない危険なイレギュラーだった。

最終的には、地上世界の理不尽や束縛に耐えきれず帰りたいと心の中で願ったばかりに、月から向かいが来て、地上での記憶を消されて、帰っていくわけだけど、かつて罰で地球を訪れた月の天女が一切の記憶を失いつつも歌っていた地上のわらべ歌に惹かれて、かぐや姫が下界に興味を持ったように、今度は彼女が歌うのを聴いた月の誰かが、第二、第三のかぐや姫として、下界に降りて、悲劇を起こすことになるのは、わらべ歌の「まわれまわれよ」という歌詞からも明らかなんだよな。つまり、高畑勲にとって、理想とか美っていう物は、ピラミッドのあるこの世界にすらなくて、絶対に到達出来ない異世界のもの(イデア界といっても良い)。それは、歴史の中で無限に繰り返しやってきて、人々の心を奪うんだけど、決して下界と交わることはないから、悲劇を起こしてしまう。それは現実では、宗教的理想とか、完全なる理性とか、共産主義世界の成功だったり、マクロなものからミクロなものまで様々なんだろうけど、そういった理想を追求して、有史以来、血生臭い破壊や虐殺が起きたのは言うまでもない。

ジブリの(出来はひどいが内容は面白い)ドキュメンタリー映画で、駿が「アニメーションは意志が筋肉、運命を表現するんじゃなくて、意志を表現する」ってカッコいいこと言ってたんだけど、駿の人間主義的な意志で求める理想と対照的な、まさしく運命の提示っていうのが、高畑スタイルなのかもなという風に思いました。

カッコよく言い換えれば、「アニメを描くとか美しいものを求めるっていうのはファウスト的契約なんだ!っていう駿と、決して訪れない千年王国をセル画の上で表現したい高田勲」というのが、ばみ解釈です。

 

観てない人は置いてけぼり!

異世界転生の話

最近、ヒナまつりっていうアニメにハマっています。今3話まで放送されてるんですけど、ザックリ言うと、異世界からやってきた最強の超能力を持つ少女ヒナちゃんが、クソ面倒見のいいヤクザの若頭(名前忘れた)の家に無理矢理居候するというギャグコメディ。ヤクザの一々的確なツッコミと全モブキャラのクズさが面白いのと、女の子が可愛いので、ニコニコ動画コンプライアンスに視聴しております。

異世界というと、ここ数年、現代の普通の人間が異世界に転生して、特別に与えられたチート能力を発揮し、ついでに女の子にモテまくることにより、労せずハーレム状態になるというアニメとかラノベがめちゃくちゃ量産されていますね。

この異世界転生モノというのは悲しい日本人のモテないオタクどもが作った新ジャンルと思われがちなのですが、実は100年以上昔の超有名国民的アメリカ人作家の一小説に端を発するのです。その作家とはトムソーヤの冒険、ハックルベリーフィンの冒険の作者として有名なマークトウェイン。その世界初の異世界転生小説は「アーサー王宮廷のコネチカットヤンキー」という作品で、主人公である19世紀アメリカの工場勤務の男が、ふと目覚めると7世紀の中世イングランドにいて、処刑されそうになるけど、未来の知識を使って、皆既月食の予言を的中させて、アーサー王に側近として取り入り、魔術師マーリーンを山師と言って追い出し、学校を作り、人々を教育し、1000年早い産業革命まで起こしてしまうというようなあらすじで、まさに何でもないやつが異世界でチートになるというお話なのです。

しかし、マークトウェインの異世界チートと、現代の異世界チートには大きな違いがあり、トウェインの場合、そこにはアメリカ的な、無知蒙昧な人々が住まう未開の地は、我々が拓いて、光を当てなければならないという伝統的なフロンティア精神の現れである一方、日本のものは、「俺たちオタクも異世界に行ったら何かすげえ奴としてちょっと頑張るだけで褒められて女の子にモテるんじゃないか」という、現世で上手くいかないから異世界行こう!みたいなダメダメな発想に基づいてるのは言うまでもありません。


何はともあれ、世界最初のSFとも言われるコネチカットヤンキーはかなり面白いので、おススメです。ヒナまつりも割と笑えるので良い感じです。